北海道の名づけ親として有名なのは松浦武四郎ですよね。
しかし、彼以前にも当時は蝦夷と呼ばれていた北海道や樺太、北方四島を見て回っていた人々がいたって、知っていますか?
精巧な日本地図を作った伊能忠敬。
樺太や北方四島も調べて回った、最上徳内。
ゴローニン事件にも関わった商い人、高田屋嘉兵衛。
平取町・義経神社の元を作った、近藤重蔵。
樺太は島だった事をつきとめた、間宮林蔵。
今回は、この5人と蝦夷の関係について、歴史の勉強中な私が調べてまとめてみました。
5人の中の最年少が、間宮林蔵です。
林蔵自身は当時20歳または25歳頃。
函館で会ったと言われる地図作りの師匠、伊能忠敬は当時55歳頃。
団長を務めた重蔵は当時27歳頃。
同行していた最上徳内は44歳くらい。
そして、高田屋嘉兵衛は29歳頃で、函館に店を出していた年です。
今回は特に北海道と関わりがあった事についてざっくりとまとめただけなので、各人の詳細については省いています。
※個人的な満足の為に調べてまとめてみたものなので、これから修正・追加する可能性大です。
伊能忠敬

伊能忠敬は大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)という地図を作りました。
伊能図、伊能大図とも呼ばれています。
ちなみに、地図作りを始めたのは55歳の頃。天文学などの地図作りに必要な勉強は49歳頃からだったと言われています。
1745年、時は江戸時代・8代将軍徳川吉宗の頃に生まれました。
天明の大飢饉、天明の打ちこわしが起きた頃は30~40代の世代。
飢饉の時は安くお米を農民に売ったり、苦しんでいた人を助けた名主さんです。
1800年に蝦夷の地図を作って以降、弟子などと一緒に本州や四国、九州などの詳細な地図を作っていきました。
北海道の地図作り

1800年、当時はまだ蝦夷と呼ばれていた北海道を測量して地図を作りました。約117日かけて、歩幅で計って作った、伊能忠敬の最初の地図です。
一説では、この測量の時に間宮林蔵(当時20か25歳頃)と函館で会っていた、弟子にしていた、とも言われています。
1818年に73歳で亡くなりました。この年に松浦武四郎が誕生しています。
最上徳内

江戸時代にアイヌ民族の事や蝦夷の事を調べていた人です。
1754年頃の生まれで、20代後半から数学の先生の元で天文学、測量術などの勉強をしていました。
徳内が26歳の1780年頃の事です。老中・田沼意次は、ロシアの南下の警戒&蝦夷との交易のために蝦夷を見て回る必要があると考えていました。
その調査団の一員として、徳内の先生が選ばれていました。しかし、病気になってしまったので代わりに徳内が行く事になったのです。
1785年、徳内は30代前半の頃に初めて蝦夷に入りました。択捉島などの北方四島、ウルップ島などの千島列島にも行っています。
その調査の間、徳内はアイヌ民族の人々と親しくしていました。
1789年、徳内が35歳頃に、和人とアイヌ民族が戦った、クナシリ・メナシの戦いが根室の方で起きました。
徳内も立ち入り調査隊に入っていましたが、アイヌの人たちと仲良くしすぎ!と捕まって取り調べを受けたりもしています。
その後の1798年、40代半ばには、同じく蝦夷を調査していた近藤重蔵(当時20代後半)と一緒に択捉島にも行っていました。
その前後には樺太の調査なども行ったり、ラスクマンなどのロシア人の対応もしました。
幕府の役人として、蝦夷の測量地図を作ったり、アイヌ民族の言葉や生活などを本にまとめたりと活動していました。
シーボルト事件
江戸時代後期、日本は鎖国を頑張っていました。1825年には異国船打ち払い令を出して、他所の国を突っぱねようとしていたのです。
シーボルト事件が起こったのはその3年後、1828年の事です。
他の国に情報が漏れてしまうのは江戸幕府にとって、とても困る事です。
そのため、シーボルトと親しかった人も疑いをかけられ、捕まったりした事件です。
最上徳内と間宮林蔵も疑われて捕まり、取り調べを受けています。
何度も蝦夷調査に行ってアイヌ民族の人々と交流する中で、徳内はとても上手にアイヌ語が話せるようになっていたのですね。
なので、2人とも良くない事をしているのではないか?と疑われてしまったのです。
ちなみにこのシーボルトが国に帰って以降、本などを出しました。
シーボルトがきっかけになり、間宮海峡の名前として広く知られる事になったのです。
高田屋嘉兵衛

1769の生まれで、20代半ばの頃に海運業者の下働きを始めました。その後独立して、高田屋を名乗り、船で商売の仕事をしていました。
30歳頃、1798年には函館に自分の店も出しています。その翌年には択捉島の海路を調べる船頭を、幕府が募集していたところに応募、お雇いの船頭になりました。
1800年頃には、幕府の指示で北方調査をしていた2歳年下の近藤重蔵から、国後島と択捉島の間の航路を調査するように頼まれて同行したりしています。
その後は根室場所を開いたり、函館の港に船の作業場を作ったりと蝦夷を中心に活動していました。
ゴローニン事件

1800年前後から、蝦夷や北方四島周辺で商売をしていた高田屋嘉兵衛。
ちょうどその頃、ロシアの人々が日本に貿易などを求める為に、船でやってくる事がしばしばありました。
1804年頃にも、ロシアからやってきたレザノフという外交官の人が開国を求めて長崎にやってきていました。
しかし、開国をしたくない日本は嫌がって、拒否しました。
面白くないレザノフは、手下のフヴォストフに命令して、樺太や択捉島で暴れさせました。
そのとばっちりを受けたのがゴローニンです。
1811年頃、ゴローニンを艦長に、ディアナ号という船が、千島列島の測量にやってきました。
またロシアが来た!捕まえてやれ!
という事で、上陸したゴローニンたちは捕まって、松前に連行されていきました。
突然艦長が連れていかれ、取り返したくてもうまくいかない船員たち。色々と頑張ったものの、ゴローニンは捕まったままです。安否すらわかりません。
それでも、副艦長のリコルドは諦めません。国後島周辺にディアナ号でまたやってきていました。
1812年、択捉島を拠点にしていた高田屋嘉兵衛が、国後島の沖を船で通りかかりました。リコルドが率いるディアナ号につかまり、ロシアのカムチャッカまで連れていかれました。
嘉兵衛に艦長は無事、という事を確認できたリコルド。丁度よく、嘉兵衛は幕府からの信頼も厚い海商だっという事もありました。
なんだかんだで嘉兵衛と仲良くなったリコルド。
嘉兵衛から『レザノフが勝手にやった事とロシア政府は関係ないから、ゴローニンを解放して欲しい』と正式な書類を幕府に出せば良いのでは?という提案を受けます。
リコルドは嘉兵衛を解放した後、正式な書類を用意して、改めて松前に行ってゴローニンの解放を求めました。
嘉兵衛の尽力もあって、ゴローニンは捕まってから約2年後、無事に解放される事になったのです。
近藤重蔵

1771年に江戸に生まれ、子供の頃はその学才の素晴らしさから神童、とも呼ばれる程の人物でした。
1790年、20歳の頃には火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)という今の警察官のような仕事に就いています。
その後も優秀である事を認められて栄進を重ねる重蔵。
1798年、27歳の頃には蝦夷調査の隊長として、44歳頃の最上徳内などの蝦夷調査経験者と共に択捉島へ行きました。
北海道博物館に見られるのは、差し替えて建てられた標柱と言われています。
1800年には、高田屋嘉兵衛を船頭にして、再度、択捉島へ開拓などの為に向かっています。
ロシアになびかないよう、幕府の役人として仕事をしていたのです。
また、蝦夷を調査する中で、札幌を都市として据えるのに丁度良いと幕府に報告をしたりしました。
平取町の義経神社

オキクルミ(アイヌラックルなど別名あり)というアイヌの神話に出てくる神様がいます。
この神様はアイヌ民族の人々に生きていく上で大事な知恵などを教えた、と言われているのです。
この神様が降臨したという伝承が残る地が、日高地方にある平取町です。
そして、平取にはオキクルミの他にも、とある伝説が残っていました。
そして、義経は人々に農耕などの知恵を与えました。それが、さながらオキクルミの再来のようだ、ハンガンカムイ(判官神)だと慕われたという伝説です。
近藤重蔵は1798年に蝦夷調査に来ていた時、平取でオキクルミの伝承と義経の伝説を聞き、二人を重ね合わせたとされています。
ただ、義経は本当は悪いやつで、アイヌ民族から宝物を奪ったり、女の人に意地悪をした、という伝説も北海道内には残っています。
間宮林蔵

生まれは1780年とも、1775年とも言われています。
1799年、20代で村上島之允の従者として、蝦夷に渡りました。
以降、1822年まで、各地の測量や調査をしています。この中で、実際に蝦夷の中を測量して、地図を作るのに使った年月は約12年とも言われています。
伊能忠敬が調べきれなかった蝦夷の部分や樺太なども測量して、地図作りの補完もしました。
1807年頃、20代半ば頃にはフヴォストフたちの襲撃事件に巻き込まれたりもしました。
1808年頃には幕府の命で樺太探検の調査隊に入っています。再度樺太に行ってじっくり見てまわった時に、樺太は島である事をつきとめました。
そして、ロシアや中国(当時は清)の動向を探るために大陸に渡り、デレンにあった役所に赴いて様子を見に行っています。
シーボルト事件の時には、持ち出し禁止の物を持って行こうとしている、と幕府に告げ口したという噂が立ったりもしたのだとか。
林蔵とゴローニン事件

ゴローニン事件は高田屋嘉兵衛によって解決に導かれました。
しかし、実は間宮林蔵もこの事件の一連の流れに関わりがあったのです。
戦ってやる!と主張したものの、周囲が逃げようと説得するので渋々逃げる事にしました。
この時、『自分は逃げないで戦うべきだと言ったと一筆書いて欲しい』と周囲にお願いして、文章を書いてもらいました。
どうして戦わなかったんだ、と幕府の取り調べを受けた時には、その文章を見せて自分は戦おうとした、と主張し、不問になっています。
そして、1811年頃、林蔵が30代の頃には松前で拘束されているゴローニンに会いに行っています。
その時の事をゴローニンは、間宮林蔵は自分たちをスパイとして疑っている、と日記に記していました。
最後に
松浦武四郎だけじゃない、北海道内を調査した人々。
もちろん、この5人以外にもたくさんの人が関係していました。
先人カードめぐりを楽しみながら、のんびり歴史の勉強も楽しんでいきたいと思います。
以上、北海道の歴史やアイヌ民族の勉強が趣味な北海道民・おかめ(@okame_0515)でした。