歴史

鈴木銃太郎ってどんな人?分かりやすく簡単まとめ

okamehan
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1856年に生まれ・1926年に71歳で亡くなった、今の芽室町辺りを開墾した人です。

1882年、勉三と共に十勝に入り、単身残って土地の様子を見る事になります。

どんな作物が育つか、試してみたりしたのです。

このとき、マラリアにかかったり、食料が無い時に近隣のアイヌの人々に助けられました。

アイヌの人々とも親しくなった銃太郎は、晩成社の人々が十勝入りしてからも交流を深めていました。

イオマンテ(熊送り)などのカムイノミ(神へのお礼をするお祭り)などのアイヌの人々のお祭りにも招待されるほどだったそうです。

後にコカトアンというシブサラ(士狩・現芽室町周辺)の酋長の娘と結婚し、子宝にも恵まれました。

うまく作物が育たない事などをコタン(アイヌの村)に来ては泣いて話していたそうです。

なので、パラパラ(泣き虫)ニシパ(お兄さん)と呼ばれていたくらいなのだとか。

1887年、銃太郎は晩成社に、会社の規則を改善する内容の書類を出しました。

晩成社の規則

  • 会社に収穫できた内の20%を納める事
  • 会社にお金を借りる時の利子は15%

という内容がありました。

この規則は、晩成社に勤めて土地を開墾している自分達には厳しいから下げて欲しい

とお願いしたのです。

天災などに見舞われ、開墾は思ったように進まず、作物や家畜などの育ちも悪かった頃です。

そんな中で会社にお金を取られるのは厳しい、という声を上げたのでした。

実際、お金が厳しくて離れていく人も多かったのが、当時の晩成社

しかし、晩成社は会社の役員と会議をした後、銃太郎の要求を却下します。

そのため、銃太郎は幹部を辞める決断をしたのでした。

晩成社が主に開拓していた下帯広(現帯広市の電信通り周辺)から離れ、今の芽室町周辺を開墾するようになりました。

農場を作ったり、新しい移住者の受け入れや指導をしながら、地域に尽くしていったと言われています。

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古川おかめ
古川おかめ
十勝で子育て中の2児の母。
北海道や十勝の歴史、グルメの裏話を調べてまとめるのが趣味のブログも7年目。
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