蝦夷に渡った八王子千人同心たち―原半左衛門・原新助ほか
蝦夷地に渡った八王子千人同心の人物たち
八王子千人同心の一部は、江戸時代に蝦夷地(現在の北海道)へ渡り、移住や開拓に関わりました。
今回は、蝦夷地に渡った八王子千人同心のなかから、原半左エ門、原新助、河西祐助と妻の梅、秋山光太郎らの足跡を紹介します。
原半左エ門(胤敦)
原半左エ門(胤敦)は、1800年に白糠へ入植した八王子千人同心の中心人物です。
その後、1804年には箱館奉行支配調役となり、1808年に帰郷しました。
帰郷後は、『新編武蔵風土記稿』の編纂にも中心となって関わっています。
原新助(胤暉)
原新助(胤暉)は、1800年に勇払へ入植し、その後むかわへ移住しました。
1804年頃には有珠牧場の支配取調役となり、馬の育成に関わっています。
1822年には、駅逓で使用する馬が1,553頭に達していました。
原新助も1808年に江戸へ帰っています。
河西祐助と妻の梅
河西祐助と妻の梅も、蝦夷地へ渡った八王子千人同心に関係する人物です。
妻の梅は、2歳の子どもを背負って移住しました。しかし、第二子を出産した直後の1803年、25歳で亡くなっています。
梅には「夜泣き梅女」と呼ばれる伝説が残されています。
河西祐助は勇払への入植後、箱館奉行調役下役となりました。しかし、1807年に有珠へ出張していた際、37歳で亡くなっています。
秋山光太郎
秋山光太郎は、1858年に蝦夷地への移住計画を最初に提案した人物です。
箱館では世話役を務め、その後、新政府側として箱館戦争に参戦しました。
しかし、七重で戦死しています。
江戸時代の蝦夷地移住から幕末の箱館戦争まで、八王子千人同心に関わる人々の活動は長い期間にわたっていました。
皆川周太夫と十勝内陸の調査
八王子千人同心には、十勝内陸を調査した皆川周太夫もいます。
皆川周太夫は1800年に十勝内陸を調査し、日高山脈を越える道路の開削計画をまとめました。
調査の経路や、現在の日勝道路との関係については、別記事で詳しく紹介しています。
まとめ
八王子千人同心の蝦夷地での活動には、入植や馬の育成、内陸の調査など、さまざまなものがありました。
また、移住した人々だけでなく、その家族も厳しい環境で暮らしていました。河西梅のように、移住先で若くして亡くなった人もいます。
八王子千人同心の歴史を知るのに、集団としての活動だけでなく、そこに関わった一人ひとりの足跡を調べてみたいなと思いました。



