勝毎花火大会を作った勝毎創業者・林豊洲って?十勝川温泉や然別湖との関係
勝毎の創業者で、花火大会を始めて、十勝川温泉や然別湖で温泉ホテルを建てて…と色んな事にチャレンジしていた人です。
厳密には十勝の新聞づくり自体は師匠にあたる菅野光民から始まっていて、豊洲はその志を継いで「十勝毎日新聞」という形に育てた人、というのが正確なところです(この辺りも本文で触れています)。
そもそも林豊洲もペンネーム(雅号)みたいなもので、本名は林茂、婿入り前は板井茂。

もうここから情報量が多い
そんな情報量の多さを、自作イラストで簡潔にまとめてみました。
ちなみに今の勝毎グループの事業は
- 十勝毎日新聞/十勝毎日新聞電子版
- フリーマガジン Chai
- OCTV(帯広シティーケーブル)
- FM JAGA(エフエムおびひろ)
- かちまい印刷/かちまいサービス
- 北海道ホテル
- 十勝川温泉 第一ホテル(豊洲亭・豆陽亭)
- 三余庵
- 十勝千年の森
- キサラファーム
- 十勝トテッポ工房
(公式サイトより)




十勝で暮らしてると、生活のどこかで耳にするものばかり
そんな勝毎の創業者、林豊洲はどんな人だったのか、十勝で何をしたのかを、本や資料をもとにまとめてみました。
※ちなみに帯広市と大分県の姉妹都市は臼杵市ではなく大分市。豊洲の出身地とは無関係で、昭和41年に東京経由の空路が同時開設されたのがきっかけだそう。
豊洲、大分から十勝へ


林豊洲、本名・板井茂(いたい しげる)は、1889年(明治22年)2月18日、大分県臼杵にて板井増次・コトの次男として誕生。
海軍・陸軍士官学校を志したものの、慢性結膜炎(トラホーム)の既往症により不合格に。
軍人以外の道としてブラジルへの移住を考え、東京の英語学校で英語学習に打ち込んでいました。
そんな折、同じ大分県臼杵の林家との縁談が持ち上がります。
1908年、林家の長女・波津女(はつめ)に婿養子として結婚。林家の援助で中央大学法科へ進学したものの、大学を中退して波津女と義父・林長次郎の住む帯広へ移住しました。
義父・林長次郎について


豊洲の義父、林長次郎は十勝監獄の御用商人として監獄製の家具や日用品を住人に販売していました。
長次郎の義兄である伊藤英太郎が御用商人を始めていたものの、跡継ぎがおらず妹の夫に後継者をお願いする事にしました。
長次郎も元々は大分の方で警官として働いていたものの、義兄の頼みで帯広に移住。義兄の仕事を継いで御用商人となります。
十勝石の加工販売も長次郎が十勝石を買い付け、監獄で製品になったものを販売する事が始まりだったそう。
長次郎の子供たちも幼くして亡くなってしまい、長女の夫に跡を任せようという事で相手を探したところ見つかったのが、同じ臼杵に住んでいた板井家の茂でした。




みんな大分の近い場所に住んでたんだね
十勝監獄って何?については話すを長くなりすぎるので、こちらをどうぞ↓


豊洲と新聞


帯広では義父の仕事を手伝いつつ、地元青年団に入ってたくさんの人と交流していました。
青年団活動を通じて知り合ったのが、十勝日日新聞社長・菅野光民(すがの みつたみ)です。
1914年に十勝日日新聞に正式入社。編集長を務める一方、道議会議員活動で多忙な菅野に代わり、理事として経営や資金繰りに奔走していたそうです。
ところが1918年、菅野がトムラウシ山で熊に襲われ遭難死。後継者問題がまとまらず、十勝日日新聞は休刊に。
この後継紙発刊を主導し、1919年9月27日、「帯広新聞社」を設立します。旬刊紙「帯広新聞」を創刊した当時、30歳です。
そして1920年4月、日刊紙に転換し「十勝毎日新聞」に改称します。




ここで十勝毎日新聞がうまれるんだね
組織は創刊2年で株式会社化。豊洲自身も記事を書きつつ記者を全道から募り、高速輪転機を導入したり。積極的に活動していきます。


「林豊洲」の誕生


1924年、「林豊洲」の雅号を名乗り始めました。
「豊」は出身地・豊後と豊かな実りを、「洲」は尊敬する西郷隆盛の雅号「南洲」と大陸を表し、十勝平原と自らの人生を十勝の発展に賭ける思いを込めたのだとか。
勝毎の元旦号で、新聞人としての姿勢を宣言する記事が載っていたそうです。
豊洲と北海道初の花火大会


1929年、北海道初の花火大会を開催。
花火大会の全国的な流れの中でも、豊洲の取り組みはかなり早い時期のものでした。
戦争などで一時中断する事もあったものの、現在まで続いている勝毎花火大会として残っています。




現地で見るのも楽しいですが、私はテレビ派です


豊洲と然別湖


1925年9月。趣味の鴨猟をしに然別湖を訪れた豊洲は、美しい風景に魅了されます。
当時、然別湖畔には清野正次(せいの まさじ)という男が住んでいました。
日露戦争に従軍した経歴を持ち、自力で一坪ほどの小屋を建てて、妻と2人で温泉宿をしていました。
そこにやってきた豊洲は、景色の綺麗さとここをもっとたくさんの人に知ってもらうにはどうしたらいいか、という話を一晩語り合ったそうです。
十勝毎日新聞で然別湖を紹介する記事を書き、三十六ミリの観光映画「十勝大観」を制作して巡回上映。中央の政財界人や文人・画家を次々と案内し、然別湖の魅力を全国へアピールしまくります。
1930年、清野の宿は生まれ変わり、温泉ホテル「光風館ホテル」として開業。音更〜鹿追間の町村道を地方道に昇格させることにも成功し、然別湖は十勝を代表する観光地へと発展していきました。
大雪山国立公園へ


1931年の国立公園法制定を受け、裏大雪から然別湖を含むエリアを大雪山国立公園へ入れてもらうために豊洲は様々な形で働きかけます。
1933年8月、調査団長として現地入りしたのは、日本の造園学・森林美学の権威・田村剛(たむら つよし)博士でした。
しかし田村博士は足が不自由で然別湖まで登るのは大変だったので、豊洲は清野とカゴを用意し、博士をそれに乗せて山道を担ぎ上げ、調査の協力をしたのだとか。
この熱意が実を結び、1934年、大雪山国立公園の指定が実現しました。日光、瀬戸内海などとともに、日本で最初期に指定された国立公園のひとつになったのです。
国立公園に指定されると、大々的な開発などは行えません。
今も然別湖やその周辺の自然を楽しめるのは、豊洲の力もあったと思うと、然別湖好きな1人としては感謝の気持ちでいっぱいです。


豊洲と十勝川温泉


現在の十勝川温泉一帯は古くから「薬の湯」としてお湯が出ている事が知られていたそうで。
1900年には依馬嘉兵衛という人物が、湯を木箱に引いて入浴を楽しんだという記録も。
1913年には本別の前田友三郎が地下十数メートルを手掘りで開発し、「笹井ホテル」の前身を作っています。
1928年、雨宮駒平がボーリングで摂氏42度の豊富な湯を掘り当て、「雨宮温泉」として営業していました。
そんな中、1932年。十勝川のほとりで犬を連れて鴨猟をしていた豊洲は、お湯が沸きだしている場所を見つけます。
そして、自力で上総掘りというボーリングを行って、温泉を掘り当てました。


1933年3月27日付の十勝毎日新聞には、この掘削の様子が報じられ、豊洲はこの一帯を「十勝川温泉」と名前をつけようと先に開業していた人々にも働きかけます。
積み重ねの上に、豊洲の手によって一つの観光地としてまとまっていくことになりました。
1934年には「観月」を開業するなど、温泉地の整備を進めていきました。
そして現在の十勝川温泉第一ホテルには、「豊洲亭」として豊洲の名前が今も残っています。
豊洲と十勝のつながり


1927年には、新民謡「十勝小唄」を作詞。
写真大会・弁論大会などの文化行事を主催し、帯広野球協会を設立して朝野球大会の開催も行っています(1925年 第1回帯広野球大会)。
ちなみに、豊洲が結婚する時の仲人は高倉安次郎。帯広の経済基盤を作った1人ともいわれ、息子さんが作家の高倉新一郎さんです。
また、長次郎の代から聖公会との縁があり、豊洲も教会に通っていたのだそう。
最後に・豊洲を支えた家族たち


1935年12月20日、豊洲は動脈硬化によりこの世を去ります。46歳でした。
豊洲の偉業として有名な話をここまでまとめてきましたが、豊洲は家族に支えられながら活動を続けていたのだなと調べていて思いました。
特に、豊洲の妻である波津女夫人は豊洲の自由な活動を支え、新聞社での仕事でのフォローも行っていたそう。



波津女夫人がすごすぎる!
新聞社が資金難に陥った際には、豊洲の姉など親族が援助することもあったのだとか。
豊洲が亡くなった後には、後継者の方々が戦争を乗り越えて十勝毎日新聞を復活させています。
調べれば調べるほど、豊洲を取り巻く様々な人々が、今の勝毎グループへとつながる土台を支えていたのだと知る事ができました。
参考にしたもの
- 十勝毎日新聞社 公式サイト「社史」
- 十勝川温泉 第一ホテル 公式サイト「会社案内・十勝川温泉の歴史」
- 北海道ホテル(株式会社勝毎ホールディングス)公式サイト
- Wikipedia「林豊洲」
- 十勝毎日新聞「主筆のこぼれ話」No.32(2019年1月1日)
- ミツカン水の文化センター機関誌『水の文化』63号「十勝を食糧王国に変えた開拓群像」
- 十勝風土記 ふるさと百年
- 林豊洲伝 など











