黒田清隆について
- 薩摩の下級武士の家に生まれる
- 新政府軍の参謀として箱館戦争で活躍
- 1870(明治3)年に開拓次官→1874(明治7)年に3代目開拓長官
- ケプロンなど御雇外国人を招いたり
- 樺太と千島列島を交換したり
- 永山武四郎と屯田兵村を作ったり
- サッポロビールなど官営の工場を作らせたり
おかめ
開拓使長官と言えばこの人
の一言に尽きる人です。開拓使長官などを担った人の中ではかなり長く、10年以上北海道の開拓に関わっていました。
官有物払い下げ事件が問題になって開拓使長官を辞任し、その後は2代目総理大臣になるなど中央の政治に関わっています。
榎本武揚
本名は食いっぱぐれの無いように、という願いを込めて釜次郎。お兄ちゃんの名前は鍋太郎です。
黒田清隆と北海道と、かなり強い関係がありました
榎本の父親は伊能忠敬が北海道の地図作りの為に測量していた際、弟子の一人として参加していたそうな。
- 蝦夷共和国樹立を目指した男
- 箱館戦争で旧幕府軍の残党として戦うも負ける
- 黒田の尽力もあって命を助けられてから開拓使へ
- 樺太千島交換条約を整えた本人
- 英語・オランダ語・フランス語・ドイツ語・ロシア語が喋れたらしい
- ケプロンとはソリが合わなかった
- 道内の炭鉱などの調査を行い、三笠の幌内炭鉱などを発見
また、榎本は小樽とも関係が深く、
1872(明治5)年には小樽の稲穂町の土地を管理する北辰社を作って、開墾に力を入れていたり、
1876(明治9)年には龍宮神社を作っていたりします。
ちなみに、奉納されている流星刀は1898(明治31)年に榎本が職人に頼んで隕石から作らせた刀の一つです。
榎本の子供が黒田の子供と結婚していたり、黒田の葬儀では葬儀委員長を務めたりと公私ともに関係が深かったようです。
官有物払い下げ事件
- 1881年に起きた事件
- 官有物(開拓使が持っていた土地や工場など)を
- 黒田清隆が五代友厚の関西貿易社に
- すごく安く売ろうとしたこと
税金を使って作られた物を民間に役人が安く売るってどういうこと!?
という事で強い反発が生まれた事件です。
しかし、黒田清隆にも言い分はあります。
- 開拓使による開拓は10年計画で考えられていた
- 新政府のお財布事情も苦しかったので、
- 計画終了と共に開拓使を廃止にしようという事になった
それじゃあ今まで作った事業や工場、どこに資源があるか調べた結果はどう活用するの!?
北海道の開拓基盤作りを頑張った意味が無くなるんじゃ無いの!?
だったら開拓使が作ったものを民間企業に買ってもらって、活用して貰えば良いじゃ無いか!
つーか、税金で作ったけど赤字続きの工場もあったんだから、安く売って活用してもらった方が良くね??
という事で関西貿易社がバックについてる北海社に売ろうとした、とも言われています。