帯広に遊郭があったって本当?載っている本やあった場所を見られる地図は?
帯広の歴史を色々調べる為に本を読んでいる中で、どういう事?と不思議に思った事があります。
それは、明治の帯広にあった大人のお店な話です。
明治26年の帯広にはもう「帯広に赤い火が灯っていた」とか、「遊郭まがい」の店があったとか。
そして、単語だけでたまに出てくる「木賊原(とくさはら)遊廓」という名前。
でも、場所が全然大通りじゃない場所で。

大通りにあった大人のお店=木賊原遊郭ではなさそう?
そもそも、この「大通り」って現在の帯広の大通りと同じなの?
本や地図によって「監獄道路」「広尾通」など違う呼び方してるけど、もしかしてそれとまた違う「大通り」が存在したの?
それとも、「大通り」にあった大人のお店が木賊原遊郭に移ったとかそういう事?





ていうか帯広に遊郭ってホントにあったの?
さっぱり何も分からないので、地図や郷土資料を追いながら、帯広にあった木賊原遊郭について、がっつり調べてみました。
この記事では、私が調べて分かった範囲で、明治の帯広の道路と大人なお店、そして木賊原遊廓の位置関係を整理してみた内容になってます。
木賊原遊郭ってどこにあったの?どんなお店があったの?などの話はしますが、大人な話はしません。
※時期によって名称が変わってややこしいので、十勝監獄は時代を通して十勝監獄としています。
調べた理由→豆成金と大人のお店


なんで遊郭とか調べだしたの?


豆成金がきっかけです!
第一次世界大戦の需要で豆や澱粉で利益をあげた豆成金・澱粉成金が、木賊原遊郭やそういったお店ですごい遊び方をしてた、という話を読んでいると出てくるんです。
例えば、お金を燃やして暗がりを照らしたとか、一晩ですさまじい豪遊の仕方をしたとか。
豆成金って何?なんで存在したの?って詳しい話はこちらをどうぞ。


参考にした主な資料
今回は主に、以下の資料を参考にしました。
- 十勝夜話 渡部哲雄
- 帯広刑務所小史 帯広刑務所
- ふるさとの語り部 帯広百年記念館
- 郷土十勝 郭はなしあれこれ 小野善也
- ふるさと百年 のれん訪問 十勝毎日新聞社
- ふるさとの思い出写真集11 明治大正昭和帯広
- 十勝20世紀 激動100年の軌跡 十勝毎日新聞社
- 白浜忠吉オベリベリ部落絵地図 帯広百年記念館所蔵
- 今昔マップ
- 帯広市図書館郷土資料 など
木賊原遊郭について大人な話知りたいって方は、小野善也氏がまとめてる「郷土十勝 廓はなしあれこれ」を帯広図書館で探して読んでみてください。
帯広の道を地図を見ながら考える
昔の大通り=今の大通り?
帯広の歴史に関する本を読んでると、「大通り」「監獄道路」「広尾通」など、現在とは違う呼び方がいくつも出てきます。





大津街道と監獄道路は違うんだもんね?
同じ道のことを言っているのか、それとも別の道なのか、最初はさっぱり分かりませんでした。
ややこしいので、ざっくりまとめるとこんな感じです↓


現在の「大通り」も過去の大通りも同じもので、監獄道路や広尾道と呼ばれていたようです。
殖民地区画の基号一号線として設定された「広尾通=大通り」だそうで。
その後、明治28年に十勝監獄の建設に伴って、帯広外役所(十勝監獄の前身というか一部)が石狩道路の基点から大通11丁目までの区間を実際に切り開きます。
この道が俗に「監獄道路」と呼ばれるようになりました。今の大通りにあたる道です。
十勝監獄って何?どこにあったの?についてはコチラをどうぞ。


明治25年、大津街道ができる


明治25年くらいに大津から帯広までの道が囚人の手で作られ、大津街道と呼ばれる今の国道38号線の元の道ができていました。
囚人だけでなく多くの看守や大工、人夫がこの土地に集まってきたのも、この時期のことです。
明治26年の帯広(オベリベリ)


白浜忠吉という人物が描いた「オベリベリ部落絵地図」というものが残っています。
明治26年ごろの様子を描いたとされるこの地図には、晩成社の事務所、殖民課の派出所、旅館、測候所、帯広外役所などが載っています。
そして、小桜、待合楼といった店も描かれています。
これらのお店は板前や芸妓を置く、今でいう料亭や宴会場に近い「料理屋」だったそうで。
木賊原遊廓の「貸座敷」とは、制度上で言えば違う存在。ではあったものの。
本を読んでたらそれっぽい感じの紹介で出ててくるという。





じゃあ、このお店が場所変えて木賊原遊廓になるの?
という謎を抱える事になりました。
明治28年、大通りが栄える


明治28年、十勝監獄の囚人たちによって大通りが作られ、民間に周辺が解放されました。
そして、大通り10丁目あたりから十勝監獄への道ができたので、十勝監獄の職員や家族たちを相手にした需要が生まれました。
大通り8~10丁目には監獄の御用商人など、様々なお店が別の場所から移って来たり新しく営業を始めています。
待合楼は大通9丁目に小桜は8丁目に移って、周辺に他の店も確認できる明治37年の地図が帯広図書館の郷土資料のページで見られます。
ちなみに、同じ地図に木賊原遊郭も載っています。私はこれを見て謎が解けました。



大通りのお店と木賊原遊郭は違うものなんだ!
ということで、大通りのお店とは別に存在した木賊原遊郭について次項から説明していきたいと思います。
限りなくマイルドに、ポイントや事実だけをまとめています。
木賊原遊廓って?
明治33年頃、木賊原遊郭ができる


木賊原遊廓があったのは、今の帯広市西6・7条北3〜5丁目付近です。
トクサ(木賊)という植物が一面に生い茂っていたことから、「木賊原」と呼ばれるようになった場所でした。
遊郭の営業の許可を求めて、正式な営業許可が下りたのは明治32年8月。
最初に開業したのは、「日の出楼」でした。もともと大津村で商売をしていた人物が、帯広の将来性を見込んで移住し、木賊原では一番最初に開業しました。
どうしてできたの?
労働者がたくさんいた場所では、遊郭やそういうお店が明治の北海道では増えていました。
札幌の薄野遊郭も、岩村通俊が開拓の為に必要だからと設置を働きかけた場所です。
北海道内には木賊原以外にも、各地に遊廓があった記録があります。
旭川の中島、釧路の米町、函館の蓬莱町・大森町、小樽の南郭などでは比較的規模の大きな遊郭が存在したようです。
北海道にあった遊郭については、コチラの本で紹介されていました。
どんな店があったの?
木賊原には、明治から昭和にかけて、開業から通算するとおよそ14軒ほどの妓楼があったとされています。
ただし同時に営業していたのは多くても9軒ほどで、時期によって経営者が変わったり、店名が変わったりを繰り返していたようです。
名前が残っているものとして、日の出楼、十勝楼、北海楼、観月、利根川楼、笹島楼、大正楼、紀の川楼、いろは楼、開盛楼、一心楼、新盛楼などがあります。
大通りの料理屋街で店を持っていた人の中には木賊原でも別に店を開いていたので、大通りのお店に勤めていた人が木賊原に芸者として行く事もあったようです。
遊廓が初と言われてるもの
木賊原には、帯広の「はじめて」がいくつかあります。
ひとつは自動車。
笹島楼を営んでいた人物が、大正7年にシボレーを購入したのが記録上、帯広に現れた最初の自動車だったと言われています。客の送迎にも使っていたんだとか。
もうひとつは盆踊り。
明治40年ごろ、木賊原で盆踊りが始まったという記録があり、これが帯広の盆踊りの発祥という説があります。越中おはら節に合せて踊って騒いで楽しんでいたそうで。
盆踊りの日は遊廓が終日休業し、なじみ客は無料で入ることができたそうです。
どんな人が働いていたの?
実際に働いていた女性たちの記録は、ほとんど残っていないようです。
はっきりと残っているとしたら、事件として新聞に取り上げられたケース。
たとえば大正10年、旭川の連隊にいた男性と、紀の川楼で働いていた遊女との間で、心中未遂事件が起きています。
二人は数年前に木賊原で知り合い、将来を誓い合っていましたが、家庭の事情もあって結ばれることが叶わず、服毒を図りました。
男性は亡くなり、遊女はそのときは一命を取り留めたものの…。
当時の新聞には、二人が遺した遺書の全文が掲載されたそうです。遺書として新聞社あてに用意されていたものがあったそうで、掲載されたんだとか。
あとは足抜けがあったとか、実際に通っていた客側がどうだったとか。働く彼女たちの待遇を改善する為に働きかけた人がいるとか。
経営者側は名前や経歴、他の事業についても資料によっては載っていてびっくりしました。
どうして今はないの?
木賊原は、昭和16年ごろから客が少なくなっていたようです。
理由のひとつとして挙げられるのが、市街地により近い場所で事が済ませられる場所がかなり増えていた、という話。
そして昭和21年、GHQによる公娼制度の廃止で、木賊原はその役割を完全に終えることになります。
今の帯広で見る木賊原遊郭のなごり


今、木賊原遊廓の面影は、現地には残っていません。
ただ、「木賊原通り」という道路名だけが、今も残っています。



グーグルマップにも名前が出てくる
もうひとつ、当時あった妓楼の名前を確認できる地図が実はあります。
昭和10年ごろの帯広の地図に、店の名前がいくつか記載されているのです。
この地図は現在の帯広でも入手可能な存在で、もしかしたらピンと来る方もいるのではないでしょうか。
気になる方はこちらをどうぞ→昭和10年の帯広中心街地図
あとがき
豆成金を調べている中で知った存在の木賊原遊郭について、限りなくマイルドにまとめてみました。
十勝の歴史を調べる中で、本の中にはちらちらと出てくる存在なのに、具体的にまとめて語られる事がほとんどない木賊原遊郭。
少しずつ載っている本をかき集めて、地図や当時の写真を探す中で、
郷土十勝で小野善也氏がまとめた物を読むまでは、本当に謎な存在でした。
今回はとにかく、木賊原遊廓がどこにあり、いつできて、帯広の街の中でどんな位置にあったのかを、地図と資料から整理してみました。
これから先また新しく分かったことがあれば、追記していけたらと思っています。











