歴史

渡辺勝ってどんな人?分かりやすく簡単まとめ

okamehan
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1854年に生まれ、1919年に69歳で亡くなった、今の音更町・然別周辺を開墾した人です。

依田勉三がワッデル塾に通っていた時に知り合い、晩成社の幹部として十勝開拓に参加しました。

開拓の為十勝に行く前に、鈴木銃太郎の妹であるカネと結婚しています。

開拓の辛さに嫌気がさす人々も多いなか、晩成社の幹部として開拓に取り組んでいきました。

妻・渡辺カネの活躍

渡辺カネさんは、横浜の女学校を出たとても頭の良い人でした。

晩成社の人々がマラリアにかかって大変な時には、あったキニーネを上手に使って助けました。

また、カネは子供達を集めて、自宅でささやかな勉強の教室を開いていました。

コチラ↓の本は渡辺カネが主役となっています。

勝は銃太郎と共に人望があり、アイヌの人々とも親しくしていたそうです。

チキリタンネ(背の高く足の長い)ニシパ(お兄さん)とも呼ばれていたのだとか。

銃太郎が幹部を辞めた後、勝も幹部を辞めて、下帯広村から離れた場所を開墾するようになっていきます。

1893年には今の音更周辺に移住して、開墾を進めていきました。

「ひとつ鍋」の由来

また、六花亭のお菓子である『ひとつ鍋』このお菓子の由来である、『開墾は豚とひとつ鍋』の詩の発端は勝だとも言われています。

六花亭の“十勝日誌”の由来は松浦武四郎から?晩成社・依田勉三と関係のあるお菓子もたくさん!
↑ひとつ鍋の箱裏面。バックの絵は晩成社社員宅の図

“開拓(開墾)のはじめは豚とひとつ鍋”

  • 開拓し始めの頃には豚とひとつの鍋があればなんとかなった!
  • 開拓し始めの頃はひとつの鍋で豚と同じご飯を食べた!

という不屈の精神が表されている、とよく言われています。

しかし、実際のところはちょっと違ったようなのです。

ひとつ鍋の詩の誕生

依田勉三が率いていた晩成社は、明治時代の十勝に入植して、開拓を頑張っていました。

が、決してお金持ちではありませんでした。

作物を作ろうとしても、上手くいかなかったり、順調に育ってもバッタに襲われたりと大変な目に合う事ばかりだったのです。

それでも頑張っていた頃のこと。

豚に与える餌を作っていた渡辺勝とカネ夫妻の家で、晩成社の幹部たちがお酒を飲み始めました。

その中で、何かツマミが欲しいとなったのです。

カネが豚の餌としてホッチャレ(産卵後の鮭)を使っていましたが、それをツマミにしてはどうか?となりました。

そして、夫である渡辺勝がふざけて“おちぶれた極度か豚とひとつ鍋”と詠みました。

貧しくて豚と同じ鍋で作られたご飯を食べている、と言ったのですね。

依田勉三はそれはちょっと言いすぎだろう、という事でその時に居た人々で議論して

“開拓(開墾)のはじめは豚とひとつ鍋”に変えたと言われています。

開拓は最初うまくいかなった、でも、豚と一緒のご飯を食べるくらいの貧しさでも頑張っていたよね

という気持ちが込められていたのでしょう。

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古川おかめ
古川おかめ
十勝で子育て中の2児の母。
北海道や十勝の歴史、グルメの裏話を調べてまとめるのが趣味のブログも7年目。
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これまでに読んだ北海道の歴史関連書籍まとめはリンクからどうぞ→参考書籍


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