松浦武四郎ってどんな人?蝦夷を調査して北海道と名付けた男の生涯
松浦武四郎は、北海道の名づけ親とも呼ばれている幕末の人物です。

松浦武四郎ってどんな時代の人なの?
- 松浦武四郎の生きた時代に関わった出来事
- 北海道探索に関わった人々
と絡めた年表をざっくり作ってみました。(1745年~1900年頃まで)


教科書で出て来たり、日本史に関するテレビなどで聞く事の多い出来事を主軸にまとめてみました。
明治維新の時代を生きた人物である、という事が分かってもらえるのではないでしょうか。
松浦武四郎の生涯
蝦夷を北海道という名前にしたきっかけである松浦武四郎。
それでは、命名に至るまでにどんな生涯を歩んでいたのでしょうか。ざっくりまとめてみました。
松浦武四郎が蝦夷調査に行くまで
1818年 伊勢(三重県)に産まれる。
1834年 17歳で日本各地を巡る旅に出る。
1843年 27歳の頃、長崎でロシアが日本を狙っているという話を聞く。
この時、特に蝦夷が危ないらしい、という話を武四郎は長崎で聴きます。
鎖国をしていた日本ですが、当時の蝦夷ではアイヌの人々が各地でロシアなどの他国と物の売り買いをしていました。


そして、ロシアの船も蝦夷の海岸に現れる事が多くなっていたのです。
このままでは、蝦夷がロシアとなるのでは?
そうなったら、日本本土も狙われてしまう、と考えたのです。
この話は坂本龍馬たちも気にしていたと言われています。
この『ロシアが日本を、蝦夷を狙っている』という話がきっかけになり、松浦武四郎は蝦夷を調べる事にしたのでした。
松浦武四郎と松前藩
1844年 武四郎は蝦夷へ調査の為に入ろうとしましたが、松前藩に入る事を許されませんでした。
1845年 28歳の頃蝦夷探査になんとかこぎつけ、実費で蝦夷の中を探検して回りました。
地理や動植物、アイヌの人々についての事などを調べていきました。
親しくなった武四郎は、同じ格好をして、同じ道具を使って蝦夷を見て回りました。
武四郎は蝦夷の探検その物を松前藩から出版の邪魔をされたり、果てには暗殺されかかったのだとか。
実費で3回見て回り、アイヌ語で呼ばれている土地名をまとめたり、詳細な地図を作り続けていきました。



でも、伊能忠敬が地図作ってるよね?



北海道詳細版を作ったって感じかな
北海道の海岸線などについての地図は、伊能忠敬や間宮林蔵といった人達の手によって記録されていました。
詳細な内陸部や地名を書き込んだ地図を武四郎は作ったのでした。
松浦武四郎、幕府の役人になる
1855年 38歳頃、江戸幕府から蝦夷地御用御雇入(えぞちごようおやといいれ)の命を武四郎は受ける事ができました。
蝦夷について情報を発信し続けていた事が認められ、幕府直々に蝦夷探検が許されたのです。
そして、武四郎はその後約3年の間に3回、蝦夷を調べて回りました。
今は日本ではありませんが、樺太も当時は蝦夷と考えられていました。
その樺太についても、武四郎は探検をして地図を作っています。
蝦夷に暮らすアイヌの人々について、近世蝦夷人物誌という本に詳しくまとめたりもしています。
蝦夷の各所を調べた事を、武四郎は“日誌”という名前を付けてまとめた本にしています。
石狩日誌や知床日誌などがある中で、十勝日誌という日誌も存在します。
十勝の菓子店・六花亭ではこの十勝日誌をモチーフにした箱でお菓子の詰め合わせが扱われています。


松浦武四郎、北海道命名の親になる
1868年 50歳頃には、日本は江戸時代から明治時代へと移り変わっていました。
武四郎が初めての蝦夷探検をしてからの20年の中で、日本では激動の幕末~明治の時代が流れていたのです。
武四郎は、蝦夷探検の第一人者として有名にもなっていました。
そこで蝦夷の地名や地理に詳しい武四郎に、明治政府は蝦夷について新しい名前の提案を求めます。
そこで、武四郎は6つの名前候補を明治政府に提案しました。
1869年7月17日 武四郎の案の一つ、北加伊道という案がありました。明治政府は漢字を北海道に改めて、新しく名前を付けたのです。



今では7月17日が“道みんの日”と言われているよ
北海道内の地名なども、武四郎がアイヌ語に漢字をあてた地名がほとんどそのまま採用されました。
つまり、北海道という名前だけではなく、道内の様々な地名もアイヌ語を元に武四郎が考えた、という事になりますね。


道内の漢字地名に当て字が多い理由だね


松浦武四郎、馬角斎を名乗る
1869年8月 51歳の頃。明治政府によって北海道開拓に関わる開拓判官という役職に任命されました。
これからは役人として蝦夷をよくするぞ!アイヌの人々のためにも働くぞ!と思っていたであろう武四郎。
しかし、開拓判官という役職についているのに、武四郎は東京勤めをさせられていました。


北海道入りできなかったの!?
現地で開拓の指揮を執ったりする事もできなかった武四郎。
1870年 任命されて一年も経たない内に、武四郎は開拓判官を辞職します。
馬角斎(ばかくさい)と名乗ったりもしました。
明治政府そのものに失望した気持ちの現れだ、とも言われています。
武四郎はその後、北海道の地に足を踏み入れる事はありませんでした。
しかし、開拓に関わっている人々に、自らの体験や知恵で助言を続けて、心を砕いていたと言われています。
その後も、武四郎は日本各地を旅しては見聞を本にまとめたりしています。
また、様々な品物を収集するコレクターでもありました。ちなみに亡くなる前年には、富士山にも登る程、元気な老人だったのです。
1888年 70歳頃、その生涯を閉じます。
蝦夷が北海道になったワケ


武四郎が明治政府に名前の提案を求められた時、以下の6つの案を提出しています。
- 海北道
- 海島道
- 東北道
- 日高見道
- 千島道
- 北加伊道
日本には東海道や北陸道などの、“道”を使って地域区分がありました。
その例にならって、6つの案にも“道”がついているのです。
そして、アイヌの人々はこの地で産まれた自らの事をカイと呼ぶ、という話を武四郎はアイヌの長老から聞いていました。
なので、この地に生きる人々、という意味を込めて、加伊という言葉を含ませたと言われています。
しかし、この話は本当にそう聞いたのか?が疑問視されているので、あくまでも諸説の1つです。
また、武四郎自身も自分を北海道人と名乗ったりしていました。
そういう事もあって、案の中に北加伊道を含めたのだ、と言われています。
この案の内から北加伊島を北海道として、明治政府は蝦夷を北海道にしたのでした。
※命名の原案については諸説あります
北海道の地名
- アイヌ語の発音を元に漢字で当て字をした
- 移住者達が故郷の地名や縁のある名を使った
- 市町村合併などで新しい名前になった
大きくわけてこの3つのパターンがあります。
明治初期にはアイヌ語の意味を元に和風の名前をつけよう!
とも考えられましたが、現地の人々が新しい地名になじめず無かった事になりました。
移住者達がつけた地名として有名なのが北広島や伊達などですが、これらは本州にもある地名や人名から付けられたものです。
ドラマ『永遠のニシパ』
松潤が松浦武四郎役
2019年放送、松浦武四郎を嵐の松本潤さんが演じたドラマです。
同じ年、帯広美術館では松浦武四郎の展示が行われていました。
松浦武四郎ってどんな人なの?全然知らない、という方にはとても丁度良い内容になっていたと思います。
松浦武四郎がどんな人物で、何をしたのか、北海道命名前後の話も描かれていて見応えがありました。
松浦武四郎について知ってる!というタイプだと、安心して見ていられる内容なのではないでしょうか。
[chat face=”okame.png” name=″おかめ” align=”left” border=”none” bg=”red” style=”maru”]武四郎の人生ダイジェストなドラマでした[/chat]
北海道の自然がふんだんに使われているので、景色を見ているだけでもとても楽しかったです。
ちなみに、ニシパ、というのはアイヌ語で「お兄さん」だとか「おじさん」などという意味です。親しい男性、目上の男性につける、敬称のようなものなんだとか。
永遠のニシパはNHKオンデマンドで見る事ができます。
Amazonプライム経由で簡単に見る事も可能です。
もしくはDVDやBlu-rayも発売されています。
最後に
松浦武四郎については、様々な書籍でその人生や功績がまとめられています。
その中でも、私が一番読みやすく、勉強になったのは、絵本の『北加伊道』です。
絵本なので、絵と分かりやすい文章で、松浦武四郎について学ぶ事ができます。
巻末には武四郎についてより詳しく書いてあるので、松浦武四郎についてより詳しく知りたい!という時にオススメです。













