十勝の開拓者と言えば、晩成社の依田勉三が有名ですよね。
と疑問に思った事はありませんか?
実は、どこで何をしていたのかが分かる石碑、史跡が十勝の大樹町と幕別町に残されています。
晩成社はこんな所でこんな事をしてたんだ!
と知るきっかけにちょうど良い石碑&史跡を見てきた感想と、晩成社について勉強した事をまとめてみました。
晩成社が今の帯広に入植してから牧場を作ったり、水田で豊作を迎えるまでの流れを簡単に年表としてまとめるとこんな感じになります。
当縁(とうべり)=生花苗(オイカマナイ)です。
本や博物館などで当縁牧場と書かれていたり、生花苗牧場と書かれていたりしています。
依田勉三自身は、当縁に明治19年から移り住んで、晩成社本社は親戚に任せ、農場はほとんど社員に任せていたそうです。
マルセイバターサンドのモデルとなった、マルセイバターを作っていた牧場。生花苗(オイカマナイ)牧場と記されている事もある。
晩成社が唯一、成功した!と喜んで宴会も開いた、大正9年に米が豊作だった水田
と思ってもらえると、「晩成社がドコで何してたかよく分かってないんだよね」というちょっと前の私のような方でも、なんとなく分かりやすいかと思います。
尚、晩成社は他にもいくつか農場を持っていました。
- 帯広農場(晩成社本社) 今の電信通りや水光園周辺
- 上売買農場 今のイトーヨーカドーや日甜のビート資料館周辺
- 下売買農場 今のジョイフルエーケーや光南小学校周辺
という3つの農場です。
今回はこの農場について、ほとんど触れる事はありません。
ですが、知っておくと「あの辺そうだったんだ!」とお散歩やドライブが楽しくなるのでオススメです。
- 晩成社って結局何してたの?
- 依田勉三って帯広だけにしか居なかったの?
- 晩成社に関する石碑や史跡を見たい!
- マルセイバターってどこで作られてたの?
- 晩成社がずっと挑戦してたお米作りって成功したの?
という事が気になっている、という方の参考になれば幸いです。
※紹介する石碑、史跡のある場所及びそこに至る道は冬期の間、除雪がされているかどうかは不明です。ご注意下さい。
大樹町・晩成社史跡公園
場所
Googleマップを使いながら、看板なども出ているので、スムーズにたどり着く事ができました。
サイロ跡や依田勉三宅の復元がある
凹んでる所にサイロ跡、と標識が立っているのは斬新でした。
また、依田勉三が詠んだ「もみじひら歌碑」があったり、牛などの家畜を不注意でたくさん死なせてしまってごめんね、という碑(祭牛の霊碑)もありました。
それぞれの碑についての紹介文や、大樹町と依田勉三について分かりやすくまとめられた看板もあるので、じっくり読む楽しみもあります。
少し奥まった所には、依田勉三が当縁で過ごした住居を復元したものも建っています。
中を覗くと、ちょっとした家具や日用品も置いてあり、こんな感じの生活だったのかな?と見る事ができて面白かったです。
依田勉三と当縁牧場
当縁牧場でのこと
などの理由で、依田勉三は当縁牧場を作りました。
どんな事をしていたのか、ものすごく簡単にまとめると以下の通りです。
- 明治20(1887)年 当縁牧場で牛や馬を育て始める。
- 明治22(1889)年 牛や豚が病気でたくさん死んでしまう→祭牛の霊碑を建てる
- 明治27(1894)年 育てた牛を函館で売ってみる
- 明治30(1897)年 サイロを建てる
- 明治34(1901)年 肉牛から乳牛に変更してバター作ろうとする
- 明治38(1905)年 コンデンスミルク作ってみる
- 明治44(1911)年 シイタケ栽培とか色々試してみる
- 大正4(1915)年 依田勉三、途別に移って牧場経営は他の人に任せる
ここでも火事になったり、家畜が死んでしまったり、人が居つかなかったり、コスパが悪い新事業を考えて始めたり、色々ありました。
しかし、いまいちパッとした成功もないまま、勉三自身は途別農場に移り住みます。
- そもそもがお米作りに向いてない土地だった
- 水田の水が冷たすぎるから、稲が育ちやすい温度にするために山から切ってきた木を燃やして、お湯を沸かして水田に入れるというスゴイ事をしてた
- そもそも依田勉三自身も農家出身じゃないからお米作りスキルが無かった
という事で、結局失敗しています。
晩成社より先に大樹にいた佐藤嘉兵衛
佐藤嘉兵衛という人が大樹の湧洞で牧場をやったり、宿泊施設を兼ねた郵便局のような、駅逓所というものを開いていました。
依田勉三も何度か佐藤の元を訪れて相談したり、佐藤が牧場に遊びに来たりした事もあったようです。
失敗したり、何かハプニングがある度に勉三を励ましてくれる、面倒見の良いおじいさんだったと考えられています。
佐藤嘉兵衛について知るのにオススメ
2020年の夏、大樹町の道の駅で販売されていました。
- 今の大樹町に入植していた佐藤嘉兵衛について
- 当縁牧場での依田勉三の努力
- 裏面には依田勉三と佐藤嘉兵衛に関する石碑・史跡の地図
など、大樹と佐藤嘉兵衛・依田勉三に関する歴史がイラスト付きで簡潔に分かりやすくまとめられています。
歴史って難しそうで苦手、という人でも読みやすい冊子だと思います。オススメです。
幕別町・途別水田の碑
場所
Googleマップで「依田近隣センター」を目指していくと、ちょっとズレた所(多分ホントは地図の道路挟んで向いにある)を示されていました。
石碑がある所までたどり着くのに、いなほ公園のトイレ近くに設置されていた周辺地図を参考にして行く事ができました。
兄・佐二平から送られた石碑
いくつかの石碑を見る事ができるのですが、その中にある、途別水田の碑がこちらです。
石碑についての説明が近くに添えられているのですが、ものすごく簡単にいうと、
俺の弟、ここで水田作るとか、めっちゃすごくないですか?
兄として誇りに思っているので皆にも俺の弟の凄さを是非語り継いで欲しい
みたいな事が書いてあります。※個人の感想です。
この石碑の詳細も看板が立っているので内容を読めるようになっています。
この紹介文に出てくる、佐藤信景という人物。
北海道神宮の境内にある開拓神社に祀られている開拓功労者37柱のうちの1人です。
実は、依田勉三も開拓神社に祀られています。
なんで依田勉三も祀られているの?もっと詳しく知りたい!という時にはコチラの話も一緒にどうぞ↓
そして、途別水田の碑の近くには依田勉三の開拓を記念する石碑も建っていました↓
この石碑が一番道路沿いにあって目立っているので、目印にすると丁度良いかもしれません。
依田勉三と途別水田
途別水田で豊作になるまでの流れ
- 明治29(1896)年 途別農場を開いて、米作りに再再挑戦
- 明治33(1900)年 米作りの成果が出始める
- 大正4(1915)年 依田勉三、当縁から途別に移住して稲作をもっと頑張る
- 大正9(1920)年 途別水田で待ち焦がれた大豊作!のお祝いをした
明治時代の途別で作られていた「黒毛」
寒い十勝でも育つお米の品種はないか、と色んな人が探していました。
その結果、石狩の屯田でも植えられていた品種から、特に寒さに強い種籾を見つける事ができました。
稲の先っぽが黒いから、黒毛と呼ばれる品種が、当時の途別では育てられていました。
ちなみに、今の北海道産米で人気の「ななつぼし」「ゆめぴりか」は赤毛の品種が親にあたります。
お祝いって何したの?
- 晩成社を辞めてしまった鈴木銃太郎や渡辺勝などの人と、お米の豊作を祝って宴会を開いた
- 静岡の晩成社のトップ、佐二平からお祝いの石碑が届く
久しぶりに集まった人々の宴会はとても盛り上がり、詩を詠み合って楽しんでいたのだろうです。
晩成社は大正9年以降どうなったの?
- 畑の作物がバッタに食べられた
- 霜が下りるのが思っていたより早くて作物がダメになった
- 鹿角欲しさに起こされた火事で畑が焼けた
- 経営した牛肉屋さんもコスパ悪すぎてダメになった
- 亜麻工場作ったら洪水でダメになった
- 山でシイタケ採れるのにシイタケ栽培した
など、色んな事業を初めては、様々な理由でダメになる事が多かった晩成社。
色んな事にチャレンジしたものの、利益が思うように出せなかった晩成社には、たくさんの借金がありました。
途別水田での豊作は依田勉三の、米を作りたい、という想いがようやく実ったものだったのでしょう。
しかし、晩成社の立て直しが出来る、という折り返し地点では無かったのです。
依田勉三自身も5年後の大正14に亡くなり、昭和初期には途別農場・当縁牧場の土地も晩成社の物ではなくなっています。
しかし、戦後の減反政策や十勝は稲作より畑作の方が適しているなどの事から、次第に水田の面積は小さくなっていきました。
昭和61年には途別の水田は消えてしまった、と言われています。
今も残る途別の水田
幕別町にある途別小学校では、水田でお米を作る授業が行われているのだそうです。
田植えをして育てたお米を収穫後にはお餅にして、皆で実りの喜びを噛み締めるのだとか。
最後に
十勝・大樹町&幕別町に残る晩成社、依田勉三の石碑や史跡を見て調べた事をまとめてみました。
実際、石碑がある場所に行くまでなんとなくしか分かっていなかった事も、そうだったんだ!ここだったんだ!と身に迫ってくる感じがして、とても勉強になりました。
また、私が行った時(2020年11月)には、どちらの石碑も周辺の整備が行き届いている、という状態ではありませんでした。
途別水田の碑の近くに行く小さな階段には倒れた桜の木がかかっていたり、晩成社史跡公園の名前を示す看板は壊れていました。
もしかしたら、近々直す予定なのかも知れません。もしかしたら、来る人があまり居ないからまあいいか、と放っておかれているのかも知れません。
もしかしたら、十勝の開拓に影響を与えた晩成社と依田勉三についてもっと知りたい!と思って見に行く人が増えたら、その周辺も変わるかも知れません。
以上、歴史好きのおかめでした。
参考文献
- 『拓聖 依田勉三傳』
- 『十勝晩成会解散記念誌 依田勉三・晩成社の研究』
- 『温故知新 十勝の石碑』
- 『依田勉三と晩成社』
など