清水谷公考について
- 京都の公家、清水谷家に生まれた
- 1868(慶応4)年、新政府の箱館裁判所の副総督として箱館に
- 旧幕府軍が箱館に来た際は青森に逃げる
- 戦争が終わってから箱館に戻って戦後処理を行う
- 開拓使が作られた時に開拓次官に指名されたが辞退
- 北海道を離れてロシアで留学したり勉強にいそしんだ
24歳の時で箱館副総督になったものの、総督の仁和寺宮親王がすぐに辞めてしまったので、繰り上がって総督になりました。
ちなみに、一緒に副総督として大野藩藩主・土井利恒(利忠の子)が選ばれていました。
箱館裁判所
- 箱館奉行所→幕府の役所
- 箱館裁判所→新政府の役所
- 箱館五稜郭内にあった施設
明治新政府ができた後、藩に属さない場所を管理するため、裁判所という役所を日本各地に作りました。
箱館奉行所から箱館裁判所に代わり、清水谷が箱館に赴任した際、箱館奉行の杉浦勝静(すぎうらかつきよ)から引き渡しを受けました。
箱館戦争
1868年~1869年にかけて行われた戊辰戦争の最後の戦い
- 1868年10月、旧幕府軍が箱館に到着
- 箱館五稜郭を占拠、松前城を攻略
- 1868年12月、箱館政権樹立・榎本武明が総裁に
- 1869年4月、新政府軍、乙部(江差の近く)に上陸
- 松前城を奪い返して箱館に迫る
- 1869年5月、箱館市街戦
- 1869年5月18日に旧幕府軍が降伏して戦争終結
この時、青森に逃げていた清水谷が新政府軍の総督を任されました。
後の開拓使長官などを務める黒田清隆が、陸軍の参謀として5月の箱館市中戦の作戦を考えたり、旧幕府軍に対して降伏や交渉などを指揮していました
この時の事もあり、黒田が北海道での権力を持つのに繋がっていったとも考えられています。
松前藩藩士(下国・田崎など)が松前城(福山城)奪還の為に先鋒を任されて戦っていたり、
新政府側についた商人(佐野・小林など)がいたり、
黒田と榎本が面会している時に村橋久成(サッポロビールの生みの親)がいたり、
土方歳三最期の戦いだったりとたくさんの人が関わっている戦いでもあります。