柳月の歴史って?有名なお菓子の誕生秘話まとめ
十勝を代表する老舗菓子店のひとつ、柳月。
三方六、あんバタさん、十勝この実などが特に有名なのではないでしょうか。
そんな柳月はどういう歴史があるのか、調べてみた事を簡単にまとめてみました。
柳月の歴史

柳月の創業者は田村英也という人で、1919(大正8)年に現在の紋別市で誕生しています。
15歳の頃に帯広でお菓子屋を営んでいた兄の元へ行き、夜間学校に通いながら、昼は菓子作りなど店を手伝っていたのだとか。
1940(昭和15)年には召集令状で旭川へ行きますが、2年後に満期除隊。
その後、満州に渡ったものの2年後に終戦を迎え、なんとか無事に帰国。
帰国後は実家でビートを煮込んで作る糖蜜づくりを始めました。砂糖の代用品として甘い物を作るのに需要があったのです。
糖蜜を作って売ってお店を出す資金を稼いでいたそうです。
アイスキャンディーの販売から始まった柳月
1946(昭和21)年に旭川駅でアイスキャンディー売りと知り合った事がきっかけで、帯広でアイスキャンディーを売る事を決めました。
1947(昭和22)年には、柳月として創業しますが、当時でも帯広は菓子屋が70軒を越える激戦区。

帯広はビートや小豆の産地だったことで、戦前から菓子屋が多かったんだそうな
洋菓子を作る事を意識
帯広で生き残る為には和菓子では難しいという事で、洋菓子の販売を積極的に行います。
1951(昭和26)年には東京の帝国ホテルのデザート担当だった人を教師に呼んで、職人達が技術を学んだそうです。
同じ年にはクリスマスケーキも販売。
1961(昭和36)年には、日本で初めてひなまつりのケーキも販売しています。
最初の看板商品・十勝石

1954(昭和29)年、柳月に最初の看板商品・十勝石が生まれました。
現在では販売されていませんが、名前の通り十勝石のようにツヤツヤした羊羹に砂糖がかかった商品だったのだとか。

だからスイートピアガーデンに大きい十勝石が置いてあるのかな?
1982年発行の「ぐりんらんどOBIHIRO」(帯広市観光協会)に掲載もされていて、長く柳月の定番商品だったことがわかります。
幸福駅ブームに乗る
1973(昭和48)年に幸福駅ブームがくると、翌年には幸福行きを発売し、ヒットを掴みました。
現在は販売されていませんが、道産バターと蜂蜜の生地にプラム・レーズン・ナッツを散らしたフルーツケーキで、箱には愛国-幸福駅間の切符を添えられていたそうです。
幸福駅ブームって何?について詳しくはコチラをどうぞ↓

銘菓・三方六は失敗から生まれた?

昭和30年代後半から、柳月ではバウムクーヘンの製造・販売が本格的に始められていました。
最初は本場ドイツのレシピを参考にしていたものの、日本人が好むしっとり&くちどけが良いバウムクーヘン作りを目指して開発を進めていました。
1965(昭和40)年にようやく理想のしっとりしたバウムクーヘンが誕生し、ソフトバウムクーヘンとしては世界で初めて作られたとも言われています。
そして、バウムクーヘンの失敗作をみた創業者が、縦に切り分けると薪の形になる事に気づきました。
開拓時代の北海道では、三方を六寸に切られた薪が暖を取るなど生活に必要な存在でした。
その薪のように切って売り出してみては?と考えた事で現在の三方六が誕生したのだとか。

発想がすごい!
1988(昭和63)年にはモンドセレクションの最高金賞を獲得し、現在ではチョコやメープルなど季節限定の味も販売されています。
今は10切れにカットされていますが、私が小さいころ(20年くらい前)はカットされてませんでした。
そこで、木を切る為の幅が広いのこぎり型のカットナイフが付いていました。
今でもお願いすると貰えるそうです。
百代餅
帯広開基100年記念(1982年)に作られたお菓子です。
もっちりした薄くて素朴な甘さのお餅に、白みそ餡・ゆず餡が包まれているのが特徴です。
子供の頃は、大きめの和紙風の包装紙で、左右→上下の順に折り畳んで包む、お供え物やお祝いの品を包むような丁寧な包装でした。
高校生の頃には、キットカットの個包装のような、両端が閉じた一般的な個包装に変わっていました。

上品なお餅食べてる気分になるのが好きだったなあ
包まれてる和紙のような包装紙の上で、小さく百代餅を切り分けてちょっとずつ食べるのが大好きでした。
最後に
柳月の歴史について、簡単にまとめてみました。
和菓子というより、洋菓子系が強い印象がある柳月。
朝ドラのなつぞらでは、あんバタさんをモチーフにしたようなおばたあんサンドが登場していたりもしました。



