インデアンカレーといえば、皆大好き十勝のカレー。
そのインデアンカレーを運営しているのが、ファミリーレストラン・ふじもりの藤森商会。
藤森商会の創業者、実は依田勉三達が十勝に入って頑張っていた明治時代にはもう、十勝にいたって知ってました?
そんな藤森商会とインデアンカレーの歴史を調べてまとめてみました。
インデアンカレーをより美味しく楽しむためのラッキョウ代わりにどうぞ。
藤森商会の始まり
どうして帯広だったの?
札幌や富良野も考えてたらしいけど、帯広がこれから!な土地だったから、一発の狙い目があると考えたそうな
明治32年の十勝帯広といえば、晩成社が開拓に入って15年以上、十勝監獄も出来ていて、大通りなどの道や建物も増えていた頃です。
とはいえ、まだまだこれからたくさん建物が必要になる頃。
そこで藤森創業者が目を付けたのが、建物を建てるのに必要な木を扱う材木商でした。
しかし、当時の十勝帯広といえばしょっちゅう十勝川が氾濫する厄介な土地。
晩成社も洪水に悩まされてたよね
藤森創業者も苦しめられるんだ…
なんと入植一年目で洪水にあい、材木が流されて財を失うことに。
長野でもやっていた養蚕業をやってみたり、十勝川渡船場付近で、渡し船を利用するお客さん相手に大福餅やまんじゅうを売る茶店を開いて急場をしのぎます。
藤森待合所の始まり
1905(明治38)年に開業していた、帯広から釧路を繋ぐ国鉄帯広駅内で待合所として営業を開始します。
肉まんやまんじゅう、和食を販売していたそうな
1914(大正3)年には現在の帯広駅西口交番付近で、駅に隣接した2階建てで営業。
藤森待合所と名前を変えました。


おやきで人気の高橋まんじゅう屋の包み紙、帯広の昭和10年の地図にも帯広駅のすぐ近く、交番の隣に藤森待合所の文字を確認する事ができます。
>>包装紙は昭和10年代の帯広市街!?歴史の勉強のきっかけに高橋まんじゅう屋でおやきを買おう
ちなみにこの頃の十勝は第一次世界大戦の影響で、むちゃくちゃ豆などが売れまくって、豆成金が誕生する好景気真っただ中でした。
藤森食堂の誕生
石炭を火力として、一流ホテルや洋食専門店が使用する最新の大型厨房施設を導入。
洋食のコックさんも採用して、十勝産の食材を使用して安く早く料理を提供する営業方針だったそう。
同じ年にはイレネー号の銅像の除幕式が行われていたり、藤丸が道東初のデパートとして営業を始めました。
帯広市は1933年に道内で7番目の市になっているので、駅や街中もかなり賑やかだったのではないでしょうか。
藤森食堂と戦争
藤森食堂も強制疎開の指令を受けて建物が取り壊しになり、廃業を決めました。
この時点で藤森商会は土地と蓄えはあったものの・・・。
戦後の1946年、農地改革や預金封鎖の政策で土地とお金が取られてしまいます。
このままでは老後の蓄えどころか今の生活すら厳しい!ということで、藤森食堂を再開する事に。
今のふじもりがある場所で改めて食堂をはじめ、養鶏や畑作もしながら戦後を乗り切ったそうな。
それで今の場所にふじもりがあるんだね
今の藤森食堂ビルは1978年に建て直されたものなんですって
インデアンカレーの誕生
当時、日本ではチェーン化・フランチャイズ化が進み、外食産業が大きく変わる時代でした。
「これからは専門店の時代だ」と照男氏が目をつけたのが、藤森食堂でも人気メニューだったカレー。
もう一つの人気メニュー・天丼は、すでに「はげ天」などの専門店があったので、独自のカレー専門店を目指すことになりました。
全国のカレー店を食べ歩いて研究を重ね…。
当時の藤森食堂と同じ建物の中にインデアンカレーが入ってる形でのスタートでした
当時の価格は1食100円(現在の価値で約300円)という驚きの安さで、コンセプトは「毎日食べられる味と価格」。子供でも買いやすい値段に、とつけられたそう。
また、ハンバーグカレーは200円、カツカレーは250円のお値段でした。
おわりに
以上、インデアンカレーと藤森商会の歴史についてでした。
当時からインデアンカレーが目指しているのは「また明日も食べたくなる味」なんだそう。
美味しさを少しずつ進化させながら、変わらず愛され続けている、そんなカレー屋さんなのですね。
調べながら、こだわって作られてきたから、いつ食べても美味しいんだな、という事がよく分かりました。
参考文献
帯広昭和ノスタルジーの本は昔のインデアンカレーの写真も乗っているので、図書館で探してみてね!
帯広昭和ノスタルジー
地域学とかちガイドブック
ふるさとのれん探訪
十勝開拓史年表
写真集明治大正昭和帯広