田村顕允ってどんな人?【開拓神社の御祭神】
okamehan
きたうみ日誌
人が少ないから機械を使って北海道の産業を豊にしよう!と考えていた1人でもあります。
択捉を見て、箱館に帰ろうとした時に乗っていた箱館丸ごと行方不明になってしまいました。
北海道に行って4ヶ月もしない位の悲劇。
明治維新前後の時には島津久光が上洛する時に付いていっていたり、岩倉具視と薩摩藩の間の連絡係として活躍していたそうな。
新政府が出来た時には、小松帯刀や西郷隆盛、大久保利通などと一緒に登用されています。
行方不明になる前には、ガルトネルを雇って洋式農場を開こうとも考えていました。
箱館にいたドイツ(プロシア)領事館の兄弟が、
事で箱館の七重(現・七飯)がガルトネル兄弟に貸し出される形になっていました。
東久世が2代目開拓長官として箱館に赴任した際、この約束は不味すぎるだろう!という事で問題になりました。
当時、外国では余所の国を自分の良いようにするのによく使われていたやり方をガルトネルは行っていると考えられたからです。
なんとか国際問題にならないよう、お金を払ったり神経を使ったりして東久世は約束を無かった事にしました。
しかし、兄弟が使っていた土地は洋式のやり方・機械が使われていたので、その後の北海道農業にすごく良いお手本になりました。
七重農業試験場として、果物や野菜、穀類などを試作する官営農場になったのでした。