祖父の足跡-満蒙開拓からシベリア抑留まで

祖父の人生について、祖父が生きている時に彼の口から直接聞いた事はありませんでした。
祖父が亡くなったのは私が中学生になるかならないかの頃。
子どもの頃の私は戦争=怖いものというイメージが強かったし、祖父自身も自分がシベリア抑留経験者だとか戦争の話は一切しませんでした。
祖父がシベリア抑留から帰ってきた人だったという事を知ったのは、祖父の遺品を数年後に整理していた頃のこと。
それでもその時ですらピンときていませんでした。
シベリア抑留について、なんとなく理解できるようになってきたのもつい最近のことです。
戦後80年の節目として、私自身も子どもを持った事で、当時の事を知りたいと思うようになりました。
将来子ども達が自分のルーツや先祖について興味をもった時に語れるようにしたい。
そう思い、祖父のことをよく知る父から聞いた話をまずはまとめてみました。
満蒙開拓青少年義勇軍
昭和2年(1927年)、祖父は福島県で農家の三男坊として誕生。
10代後半の頃、祖父は、満蒙開拓青少年義勇軍(まんもうかいたくせいしょうねんぎゆうぐん)として大陸へと渡っています。
- 1938~1945年にかけて行われた満州開拓政策の1つ
- 16歳から19歳の若者が対象
- 茨城県内原で訓練を受けてから満州へ渡った
茨城県の内原訓練所で訓練を受けた後、祖父は満州国のチチハルへと派遣されたそうです。
その後、祖父は軍務に就き、戦車兵として従軍。階級は曹長まで昇進していたと聞いている、と父は語っていました。
ソ連侵攻とシベリア抑留
昭和20年(1945年)8月9日。
ソ連軍が満州に侵攻し、多くの日本軍将兵が捕虜になりました。
当時18歳の祖父もまた、ソ連軍の捕虜となり、ロシアのシベリア地方へと連れて行かれる事に。
- 抑留= 自由を奪われて一定の場所に留め置かれること
- 終戦後旧満州、樺太、千島から約57万5千人の軍人等がシベリア等に強制抑留された
- 戦争により大きな人的被害と物的損害を被ったソ連が、戦後復興を担う労働力不足を補うために行った
- 極寒な土地での過酷な労働などで約5万5000人が命を落とした
祖父の抑留先はバイカル湖周辺だったそうです。(現在のロシア・シベリア地方)
北海道よりも更に北の異国の土地で、10代の祖父はどんな生活を強いられてきたのか父もはっきりとは聞いていないと言います。
シベリア抑留は過酷なものだったとよく話には聞きますが、祖父は何を考えどう生き抜いたのでしょうか。
日本へ帰国、北海道へ
昭和23年から25年(1948年~1950年)にかけて、祖父はシベリアから日本へと帰還を果たしました。
父によると、正確な年ははっきりと思い出せないとのことでした。
今でいう大学生にあたる21歳から23歳という青春の貴重な時期を北の異国で過ごし、3年~5年の抑留生活を経て、日本へ帰ってきた祖父。
しかし、帰国後の祖父は、シベリア帰りだからと就きたい職業にも就けなかったらしいと父は語ります。
20代前半という年齢で、当時発足したての自衛隊に入隊、
やがて北海道のオホーツク地方で勤務します。
そこで祖父は、明治期に福島から北海道へと団体移住してきた家族の娘と出会い、結婚。
この結婚によって生まれた子供が、私の父になります。
最後に
祖父がシベリアから帰ってきていなければ、父も私も生まれていなかったと思うと、生き抜いてくれた事に感謝の気持ちでいっぱいです。
今後は祖父の体験をより深く知るために、以下のようなテーマで調べていきたいと思っています。
- 満蒙開拓青少年義勇軍についての詳細
- 満州と日本の関係
- シベリア抑留の具体的な話