松田伝十郎について
- 14歳で才能が認められて江戸に出てくる
- 寛政11年に蝦夷地御用掛になり、蝦夷へ渡る
- 箱館奉行所の役人として択捉や蝦夷各地、樺太などを調査した
- 1808(文化5)年に間宮林蔵と一緒に樺太調査に出発
- 樺太が半島ではなく離島だった事を確認した
- 商人や中国人の商売の仕方を改善させた
間宮海峡の名前が付いてる海峡も、伝十郎が確認した後、林蔵がその話を聞いて見に行ったので最初に見たのは伝十郎という事になります。
才能が認められて役人になる、という半生なども林蔵によく似ていると言われていたり、蝦夷や樺太の警備や暮らしに心を砕いた人でもあります。
津軽藩士殉難事件
- 1807(文化4)年の冬におきた津軽藩士の悲劇
- ロシアに備える為に津軽藩士が宗谷と斜里に派遣される
- 寒さと野菜不足などで壊血病(水種病・浮腫病)が広がる
- 多くの藩士が命を落とした
この時、宗谷には松田伝十郎が、斜里には最上徳内がそれぞれ赴任していました。
2人とも、蝦夷の冬に対する経験値があったり、アイヌの人々の知恵などを知っていたので平気でした。
その後、あまりにも冬が寒くてツラいので越冬場所を変えて欲しい!と訴えた結果、ちょっと南の方にある増毛で越冬できるようになったのだとか。
アイヌの人々は寒すぎるので、越冬する際は違う地域で過ごしてたという事もあり、過ごし方を知っていれば防げた事件とも言われています。
この事件を偲んで斜里に慰霊碑が建っていたり、宗谷公園にコーヒー型の津軽藩兵詰合の記念碑が建っています。