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歴史

松前徳広ってどんな人?【開拓神社の御祭神】

松前徳広について

  • 16代藩主の父は徳広が7歳の時に病死
  • 17代藩主の叔父も病死
  • 本人も病弱で藩の運営にあまり興味が無かった
  • 家臣の間で次の藩主は誰だ戦が始まる
  • 藩主になったら幕府が無くなる
  • 旧幕府軍に居城を襲われて弘前(青森)へ逃げる
  • 明治元年に徳広も25歳で亡くなる

最期は自分で命を絶ってしまったとも、病気がちな体だったから、とも言われています。

藩主が亡くなった後に家臣たちが新政府軍の先鋒として戦い、松前藩の居城・松前城(福山城)を取り戻しました。

場所請負人制度

  1. 蝦夷は米がとれない
  2. 松前藩は家臣に米を与えられない
  3. 上級武士には領地内を分割して知行地に与え
  4. 下級武士には給料としてお米とお金を渡す

上級武士は知行地を直接経営したワケでは無く、年に1回、商船で現地に行き、

アイヌ人々と品物を交換して松前に店舗を持つ近江商人らに売り、その差額で生計を立てていました。

だんたんと、この現地での業務を商人に委託し、請負金を収めさせるようになります。

この仕組みが場所請負制度です。

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