岡本監輔について
- 清水谷公考の家に住み込みで子弟に勉強を教えていた
- 樺太の開拓・警備に興味が沸いて樺太に住む
- 樺太の中を調査して島の最北端まで行った
- 明治政府の役人になると樺太の開拓・警備に心を砕いた
間宮林蔵の書いた本を読み松浦武四郎と会って話をしたりと、蝦夷通な人から直接蝦夷の話を聞いていました。
樺太では犬ぞりにも乗ったりしてたそう。
樺太がロシアとの雑居地だった事もあり、このままでは全部ロシアのものになるから危険だ!
と政府に訴えかけていましたが、樺太と千島列島の交換をすることになり、役人を辞めました。
樺太放棄論
- 日露和親条約
1855(安政元)年には日本とロシアで樺太は雑居地
択捉から南は日本、そこから北はロシアという約束をした
- 樺太千島交換条約
1875(明治8)年に樺太はロシア領土に
千島列島は日本領土にしようという事になる
しかし、明治新政府で樺太開拓使の開拓次官となった黒田清隆は
- 樺太には何かとお金がかかる
- ロシアの人もたくさんいる
- 何かと問題は起きる
- それだったら千島列島が欲しい
と考えました。
そして、国際法にも詳しいから、という理由で榎本武揚がロシアに行って樺太千島交換条約を結んできます。
この交換の時に樺太・千島に住んでいたアイヌの人々は国籍をロシアor日本に決めなければならなくなり、色々と大変な事になっていたようです。