鈴鹿甚右衛門について
- 江差の複数代に渡る富豪。代々甚右衛門と名乗る
- 初代は寛政5年に江差で質・呉服を営んでいた橋本屋を継いだ人
- 檜山・後志の沿岸に道を作るために資金を出した
- 太田山道・狩場山道や鶉山道など
太田山道・狩場山道は山あり谷あり(物理)で、
開削工事は大変で想定の約5倍かかった上、死者は5人・負傷者・25人を出して逃げる人も多かったそう。
普通に通るのにも苦労していた道を整える、となると大変な労力が必要になるのですね。
太田山道
- 関内~太櫓・約12里(約47㎞)
- 檜山地方・せたな町の南から太櫓の間
狩場山道
- 瀬田内~島小牧・約10里(約39㎞)
- せたな町と後志地方・島牧村原歌の間
今の国道229号線の元になった道です。
太田山道・狩場山道は渡島と天塩を行き来するのに、
西蝦夷三険岬の一つと言われた茂津岬の近くを船で通る時は転覆しやすいし、
陸路で、と行っても狩場山は道南最高峰の山で歩くのも大変。
という事で作られました。
鶉山道
- 厚沢部~大野・約11里(約43㎞)
- 檜山地方・厚沢部町と渡島地方・北斗市の間
江差と函館を繋ぐ、今の国道227号線の元になった道です。
別名・大野越、鈴鹿山道とも呼ばれ、
当時は江差と函館を行き来するとなると、ぐるっと海岸沿いを通って遠回りする道
くらいしかなかったので、すごく喜ばれたんだとか。