明治時代に開拓使によって雇われた外国人の先生たち、御雇外国人(おやといがいこくじん)って知ってますか?
ボーイズ・ビー・アンビシャス!(青年よ大志を抱け!)って言うだけの人ではありません。
そして、クラーク博士よりも長く日本に滞在したり、北海道に滞在していた人たちもいます。
今回は明治開拓期な北海道の指針となった人々、
御雇外国人について特にホーレス・ケプロン、エドウィン・ダン、ウィリアム・スミス・クラーク(クラーク博士)の3人について
調べた事をまとめてみました。
なんで3人なのかというと、何かにつけて名前が出てくる人たちだからです。
※おかめ個人の体感
北海道内の博物館や歴史の話になると出てくる人なので、覚えておいて損は無いかと思います。
- 北海道の歴史に興味がある
- 博物館行ったらケプロンとか御雇外国人って書いてあって誰?ってなった
- クラーク博士って何した人なの?
- エドウィン・ダンも名前だけ聞いた事ある
- 北海道の観光・旅行で博物館に行きたいと思っている
という方の参考になれば幸いです。
御雇外国人と北海道
御雇外国人(おやといがいこくじん)って?
北海道の開拓について色々相談に乗ってくれたり、指導してくれる先生のような存在です。
幕末のドタバタを経て、外国とも渡り合って行かなければならない事になった日本は、
外国に留学生を行かせて、文化などについて勉強していました。
昔から、北海道は本州と気候などが全然違う、という事は知られていました。
松前氏がいた函館や江差などの道南地方以外は、本州から移住して生活するのが
中々難しい土地として見られていました。
そのため、北海道と似た気候な外国の人に色々教えてもらったら良いんじゃないか?という事で専門家な先生を呼ぶ事にした形です。
という訳で
開拓使の偉い人・黒田清隆が明治4年にアメリカから農務局長の長官、ホーレス・ケプロンを開拓使の最高顧問
として招きました。
開拓使による御雇外国人の最初の人、とも言われています。
そして、土地の測量が得意な人や地質調査が出来る人など
様々な分野の人々が外国から雇われて日本にやってくるようになりました。
開拓使に雇われた外国の先生たちは約80名で、その内の半分以上はアメリカ人です。
他にも、イギリスやドイツ、中国など多様な国から先生を呼んでいました。
ケプロンがアメリカから詳しい人をよく呼んでいたから
北海道から近いロシアを刺激しないように、当時はロシアと仲の良かったアメリカから人を呼ぼう!という考えがあったから
アメリカと北海道の気候がよく似ていたから
などの理由があると言われています。
御雇外国人と開拓使と北海道
外国から先生を招いて進めた事は、ざっくり言うとこの4つです。
北海道の調査
→北海道内の気候や地質・測量などを調べてどんな事が出来るか知る
主要道路づくり
→札幌を北海道の主軸とした時、どこに道路があれば良いか
官営工場の建設
→開拓使による官営の工場を作って、生活に必要な物や売り物を作りたい
官営の学校(後の札幌農学校)づくり
→農業など北海道を開拓するのに必要な知識を教える学校を作ろう
などの事が行われ、北海道の開拓の基盤が作られていきました。
この時の色んな事が今の北海道の農業や産業などにも大きな影響を与えています。
有名な御雇外国人3人
この3人を覚えておけば明治時代の北海道の歴史を読みやすくなる、という人物について簡単にまとめてみました。
ホーレス・ケプロン

黒田清隆がアメリカの大統領から紹介してもらった農務局長で、1871(明治4)年に来日したおじいちゃんです。
札幌の大通公園で黒田清隆と並んで銅像が立っている人でもあります。
ケプロンから紹介された様々な専門家によって北海道の地質や気候、測量なども行われています。
黒田清隆が箱館戦争で助命した榎本武揚とは、北海道を開拓する意見が食い違い対立していたそうで。
人柄はすごく良い人!というより、人間味のある意地悪さがあったようです。
札幌の港は冬に使いにくいから室蘭の港と繋がる道作ろう
北海道は稲作しにくいから麦作って主食パンにしよう
北海道の農地広いから馬使った様式農業が良いと思う
牛育てて牛乳飲んだり牛肉食べるのも良いよね
北海道で育つ作物ってこんな種類があると思う
開拓使の学校作って良い人材を増やそう
ビール作ったり缶詰つくるのもオススメだよ
などなどなど。
北海道を調べた上で、こんな事してったらお金も作れるし、移住した人たちの暮らしが成り立つと思う。
という提言(アドバイス)をしていたそうです。
現代まで続く、北海道らしさ、の生みの親の1人とも言えるでしょう。
米が作れないなら麦を作ればいいじゃない
とパン推しなケプロンでしたが開拓するのは日本人なのでやっぱり米は作られています。
サッポロビールとして今や有名な開拓使麦酒醸造所ができるきっかけもケプロンだった、と言われています。
また、ケプロンはアンチセルとワーフィールドという、学者さんをアメリカから連れてきていました。
この2人を主にして調査隊が組まれ、北海道を調査してどんな気候か、
どんな作物が育つか、などを見てもらった上で明治4年にケプロン第一報文として報告書をまとめています。
その後、出された開拓使顧問ホーレス・ケプロン報文がよく知られている『ケプロン報文』にあたるのだとか。
北海道内各地に点在する郷土資料館や博物館では、ホーレス・ケプロンの名前を見る事が何かと多い印象です。
エドウィン・ダン

明治の北海道を舞台にした漫画・ゴールデンカムイにも、エドウィン・ダンをモチーフにしたと思われる、ダンという外国人が登場しています。
エドウィン・ダンはアメリカで家族が経営していた牧場で働きながら、畜産や馬についての知識を蓄えていました。
来日した時まだ20代半ばの青年です。
ホーレス・ケプロンの息子によって開拓使に畜産に詳しい人として紹介されやってきたのでした。
来日する際には、牛40頭と綿羊91頭を引き連れてやってきました。
1873年に来日し、東京で開拓使が行っていた東京官園で農業や畜産の指導を約30人に行っていました。
1875年から開拓使が廃止される1882年までの7年の間、北海道に滞在し、畜産の技術指導や馬の品質向上指導に力を注いだと言われています。
そのため、北海道酪農の父、とも呼ばれています。
(北海道酪農の父と言われている人は他にもいるのでお父さんの1人ですね)
また、馬がすごく好きな人物で、乗馬も上手だったのだとか。
エドウィン・ダンと北海道のあれこれ
この時行ったのが、日本での初めての去勢手術だと言われています。
家畜の飼育管理や、肉製品への加工、バターの作り方、プラウやハローなど馬に装着して使う洋式農業具の扱い方などを指導しました。
洋式農業器具ってどんなのかというと、
今でいう、ばんえい競馬のように馬に器具を引きずってもらって畑を耕すというスタイルです。
この時作った真駒内用水がその後、
水田に水を引くのに丁度良いとして稲作が広まるようになりました。
日高・新冠にあった馬の牧場の再整備を行いました。
道産子と外国の馬を交配しての馬匹改良や、サラブレッドを飼ってより良い馬を増やすようにしました。
そして、この新冠牧場では、エゾオオカミによる馬への被害に悩まされていました。
約10日の間に、仔馬が90頭、エゾオオカミに襲われたという事もあったのだとか。
馬を愛するダンはアメリカから猛毒のストリキニーネを取り寄せ、
肉に混ぜるなどして周辺のエゾオオカミを退治しました。
開拓使も家畜や産業を守る為にエゾオオカミ退治に積極的だったり、
天災による動植物への影響などもあり、
今では北海道でエゾオオカミを見る事は無くなってしまいました。
開拓使が廃止された後は一度アメリカに帰国しましたが、1884年にアメリカ公使館二等書記官として再来日します。
その後、日清戦争が起きた時には日本の為に交渉に尽力。
公使を辞めた後は新潟で石油の会社を作ったり、三菱の造船所に勤務したり
82歳で亡くなるまで日本に居ました。
奥さん2人(1人目ツルさんは若くして病死・その後ヤマさんと再婚)も日本人で、日本を気に入っていたと考えられています。
札幌の真駒内にはエドウィン・ダン記念公園があります。
その中にはエドウィン・ダンの生涯や功績、遺品などが展示紹介されているエドウィン・ダン記念館もありますよ。
クラーク博士

さっぽろ羊ヶ丘展望台で腕を伸ばして立っている銅像が凄く有名な人ですよね。
ウィリアム・スミス・クラークの名前は分からないけど
クラーク博士なら聞いた事ある、という人も多いのではないでしょうか。
クラーク博士はマサチューセッツ農科大学の学長で、植物学者でもあります。
大学の休暇を利用して日本・北海道にやってきたとも言われています。
札幌農学校の教頭先生として招かれた時、50歳でした。
校長先生は他の開拓使な仕事も兼任して忙しかったので、実質クラーク博士が校長として見られていたそうです。
また、北広島市のカントリーサインはクラーク博士が登場しています。
アメリカに帰る船に乗るまでの道の中で、島松の駅逓所で生徒とさよならした時に
「ボーイズ・ビー・アンビシャス(青年よ大志を抱け)」
と言っていたのだとか。
授業中などに多用していた言葉だったワケではないんですね。
クラーク博士と札幌農学校なあれこれ
札幌農学校は北海道開拓や学業の発展のために作られた学校でした。
その中でクラーク博士は農業の事や・植物学・英語などを教えていました。
クラーク博士が経験なクリスチャンだった事もあり、
良い人格を育てる為にもキリスト教も教えていたそうな。
ビー・ジェントル(紳士に)を校則にして、
自由と独立・人間の尊重を基盤にした校風を目指していました。
農業の先生として、敬虔なキリスト教信者として、
北海道にふいた新しい時代の風のシンボルのような存在
として見られていたと考えられています。
直接クラーク博士から教わってはいませんが、農学校に通っていた著名な人として
内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾など後の時代に名を残している人がたくさんいます。
今でも外国人の先生って学校の中で目を引く存在ですが、
明治期で色々新しい事をしようとしている北海道に外国人の先生がいる!
というのは凄く目立ったのではないでしょうか。
北海道大学付属の植物園
開拓使へクラーク博士が提案していたのを元に、1886年に作られました。
北海道大学農学部第二農場
クラーク博士の大農経営構想によって、一戸の酪農家をイメージして作られた開拓の模範農場として1876年に誕生。
1877年に建設された家畜房や穀物庫は日本最古の洋式農業建築とされている、
とても貴重なものなのだとか。
2代目教頭のウィリアム・ホイラーが考えて、1878年に作られた札幌農学校の演武場が今も建物が残っている札幌時計台にあたります。
北海道にいたのは実質8ヶ月程度でしたが、すさまじいインパクトを残していった人として、その後も語り継がれているクラーク博士。
アメリカに帰国した後は、一緒に会社を興した知人にお金を取られてしまったり、
親族から裁判を起こされたり、病気になったり中々切ない晩年を過ごしています。
札幌にいた時が人生で一番良い時間だった、というような事を言って亡くなったとも言われいます。
北海道ですごく生き生きしていたんだろうなぁ、なんて事を思ってしまいますね。
ちなみに、北海道で甜菜(ビート)を作ったらいいのでは?
という提案をしていたのもクラーク博士だったそうな。
羊ヶ丘展望台・北海道大学がクラーク博士ゆかりの有名なスポットですが、
北広島市エコミュージアムセンター知新の駅でも功績や生涯
を知る事ができるのでオススメです。
生徒と別れを惜しんだ島松旧駅逓所も近くにあるので
ドライブがてら歴史に触れる、という時にぴったりなのではないでしょうか。
最後に
以上、御雇外国人って誰なのさ?何したのさ?についてまとめました。
あくまでも個人的にこの人達よく名前出て来るなーって感じている3人を簡単にまとめただけなので、本当はもっと色んな事をしていたり、色んな人がいたり。
もっと調べていくと、博物館に行ったり、北海道の歴史の本を読む度にすごく楽しくなる事間違いなしです。
以上、北海道の歴史が気になる十勝民・おかめ(@okame_0515)でした。
