北海道や北方四島の調査をして択捉島に標柱を設置した事などで有名な近藤重蔵。
北海道開拓神社にも開拓功労者として祀られています。
- 近藤重蔵ってどんな人?
- 択捉島の標柱を置いたわけは?
- 黄金道路や平取神社との関係は?
など、北海道と近藤重蔵の関係についてとても簡単にまとめてみました。
近藤重蔵について
1771年に江戸に生まれ、子供の頃はその学才の素晴らしさから神童、とも呼ばれる程の人物でした。
1790年、20歳の頃には火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)という今の警察官のような仕事に就いています。
その後も優秀である事を認められて栄進を重ねる重蔵。
1798年、27歳の頃には蝦夷調査の隊長として、44歳頃の最上徳内などの蝦夷調査経験者と共に択捉島へ行きました。
近藤重蔵と択捉島
北海道博物館に見られるのは、差し替えて建てられた標柱と言われています。
1800年には、高田屋嘉兵衛を船頭にして、再度、択捉島へ開拓などの為に向かっています。
ロシアになびかないよう、幕府の役人として仕事をしていたのです。
また、蝦夷を調査する中で、札幌を都市として据えるのに丁度良いと幕府に報告をしたりしました。
近藤重蔵と黄金道路
択捉島からの帰り、広尾と日高を繋ぐ山道を自腹で作りました。
最上徳内も地域住民から不便だと相談を受けており、重蔵も話を聞いていたようです。
今は使われていない道ですが、黄金道路が出来上がるまでは使われていた道にあたります。
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近藤重蔵と義経神社
オキクルミ(アイヌラックルなど別名あり)というアイヌの神話に出てくる神様がいます。
この神様はアイヌ民族の人々に生きていく上で大事な知恵などを教えた、と言われているのです。
この神様が降臨したという伝承が残る地が、日高地方にある平取町です。
そして、平取にはオキクルミの他にも、とある伝説が残っていました。
そして、義経は人々に農耕などの知恵を与えました。それが、さながらオキクルミの再来のようだ、ハンガンカムイ(判官神)だと慕われたという伝説です。
近藤重蔵は1798年に蝦夷調査に来ていた時、平取でオキクルミの伝承と義経の伝説を聞き、二人を重ね合わせたとされています。
ただ、義経は本当は悪いやつで、アイヌ民族から宝物を奪ったり、女の人に意地悪をした、という伝説も北海道内には残っています。
ただ、平取神社に立てられている紹介看板などには近藤重蔵などについて、触れられていなかったのが不思議でした。
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