日本の地図を初めて詳細につくったという事で、歴史の教科書にも載っている伊能忠敬。
北海道開拓神社にも開拓功労者として祀られています。
北海道と伊能忠敬の関係について、さくっと読めるように重要ポイントだけをまとめてみました。
伊能忠敬について簡単に

- 飢饉の時にはお米を農民に売ったりした名主
- 50歳から天文学など地図作りの勉強をスタート
- 1800(寛政12)年に蝦夷に渡り、歩いて測量
- その後は日本各地の地図を作った
- 間宮林蔵の師匠と言われている
1745年、時は江戸時代・8代将軍徳川吉宗の頃に生まれました。
天明の大飢饉、天明の打ちこわしが起きた頃は30~40代の世代。
飢饉の時は安くお米を農民に売ったり、苦しんでいた人を助けた名主さんです。
伊能忠敬と日本地図
伊能忠敬は大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)という地図を作りました。
伊能図、伊能大図とも呼ばれています。
ちなみに、地図作りを始めたのは55歳の頃。
天文学などの地図作りに必要な勉強は49歳頃からだったと言われています。
1800年に蝦夷の地図を作って以降、弟子などと一緒に本州や四国、九州などの詳細な地図を作っていきました。
蝦夷が幕府直轄の土地になった時に、自分から地図作成をしたいと願い出た伊能忠敬。
調査にかかる諸経費を自分で出すから、人と馬だけ提供してくれと地図作りを始めました。
幕府からトータルで貰ったのは約20両、伊能が自分で出したお金は約80両だったと言われています。
伊能忠敬と北海道の地図

1800年、当時はまだ蝦夷と呼ばれていた北海道を測量して地図を作りました。約117日かけて、歩幅で計って作った、伊能忠敬の最初の地図です。
1日に約40kmは歩いてたらしいよ
すごっ!
一説では、この測量の時に間宮林蔵(当時20か25歳頃)と函館で会っていた、弟子にしていた、とも言われています。
地図自体は生きている間に完成しなかったそうな
お弟子さんたちが継続して作ってたんだね
1818年に73歳で亡くなりました。
ちなみに、この同じ年に北海道の名付け親として有名な松浦武四郎が誕生しています。
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