北海道、樺太を調査をしたり伊能忠敬の地図作りも手伝ったと言われている間宮林蔵。
北海道開拓神社にも開拓功労者として祀られています。
- 間宮林蔵ってどんな人?
- 間宮海峡の名前の元になったの?
など、北海道と間宮海峡の関係についてとても簡単にまとめてみました。
間宮林蔵について
生まれは1780年とも、1775年とも言われています。
1799年、20代で村上島之允の従者として、蝦夷に渡りました。
以降、1822年まで、各地の測量や調査をしています。
この中で、実際に蝦夷の中を測量して、地図を作るのに使った年月は約12年とも言われています。
伊能忠敬が調べきれなかった蝦夷の部分や樺太なども測量して、地図作りの補完もしました。
1807年頃、20代半ば頃にはフヴォストフたちの襲撃事件に巻き込まれたりもしました。
1808年頃には幕府の命で樺太探検の調査隊に入っています。
再度樺太に行ってじっくり見てまわった時に、樺太は島である事をつきとめました。
そして、ロシアや中国(当時は清)の動向を探るために大陸に渡り、デレンにあった役所に赴いて様子を見に行っています。
シーボルト事件の時には、持ち出し禁止の物を持って行こうとしている、と幕府に告げ口したという噂が立ったりもしたのだとか。
間宮林蔵とゴローニン事件
ゴローニン事件は高田屋嘉兵衛によって解決に導かれました。
しかし、実は間宮林蔵もこの事件の一連の流れに関わりがあったのです。
戦ってやる!と主張したものの、周囲が逃げようと説得するので渋々逃げる事にしました。
この時、『自分は逃げないで戦うべきだと言ったと一筆書いて欲しい』と周囲にお願いして、文章を書いてもらいました。
どうして戦わなかったんだ、と幕府の取り調べを受けた時には、その文章を見せて自分は戦おうとした、と主張し、不問になっています。
そして、1811年頃、林蔵が30代の頃には松前で拘束されているゴローニンに会いに行っています。
その時の事をゴローニンは、間宮林蔵が自分たちをスパイとして疑っている、と日記に記していました。
間宮林蔵と間宮海峡
サハリンと中国大陸の間にある間宮海峡は、シーボルトが世界に広めた地図にそう書いてあったので広がりました。
間宮林蔵と一緒に樺太を調査しに行っていた松田伝十郎が、先に樺太は島であった事を確認し、その話を聞いた林蔵も見に行きたい!となったので見に行ったそう。
なので、最初に海峡を確認したのは松田伝十郎だったものの、シーボルトが間宮海峡と名付けたのでそっちのインパクトが強く残ってる、という事のようです。
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